福永武彦研究『夢のように』(C)1998 Yuichi Toyokura


〜飛天と銀の三角とJ.BOY〜

 J.Boy 掲げてた理想も今は遠く
 J.Boy 守るべき誇りも見失い
 ・・・・・・
 J.Boy 頼りなく豊かなこの国に
 J.Boy 何を賭け 何を夢見よう
 ・・・・・・
 J.Boy 打ち砕け 日常ってやつを
     乗り越えろ もう悲しみってやつを
 J.Boy 受け止めろ 孤独ってやつを
     吹き飛ばせ その空虚ってやつを     (浜田省吾『J.BOY』)

 この曲をよく聴いていました。学生の頃のことです。今は聴こうと思いません。この曲を好きだったという記憶だけが残っています。私の裡では、この曲は無いも同じです。想いは、失われたかのようです。
 文藝の、他の芸術と比べて、得意とすることの一つに「無いということを表現する」というのがあります。これは何も文藝として特別なことなのではなく、その手段である言語表現に本来的に備わっている機能です。迷子の子供でさえ「お母さんが居ない」と言います。これは、「愛が無くなった」と云うのと、表現自体の用法としては一緒です。
 「無い」という言葉を使うときには、そこに様々な想いを織り交ぜることができます。それは、寂しさであり、悔しさであり、虚しさであったりするでしょう。けれど、文藝として、この用法を深化させる場合には、もう一つの用法と、もう一つの側面にも気付くべきです。
 「無いということを表現」できることに加え、「無いものを表現」できるのも言語表現の特長です。例えば福永は、随筆『飛天』の中で、こんなことを書いています。

−−時は過ぎ行くから私たちは一種の幻想を用いないでは昔のことを考えることは出来ない。(中略)私たちは飛鳥奈良の時代をその遺物によって推し量るほかはない。(中略)同じ文化の中でも音楽のみは、殆ど形のないもの、空想によってしか補うことの出来ないものである。(中略)私たちは当時の人々がどのように琴を弾き、どのように琵琶を掻き鳴らしたかを、また音楽を聞くことでどのような畏怖と憧憬と愉悦とを感じていたかを、知らない。況や飛天が手にしている横笛から如何なる調べが流れていたか、知るよしもない。
−−即ち私がその時考えたものは、そして今も考えるのは、雲間に奏されていた笛の音は何処へ消えたかということである。

 これは、とても浪曼的な文章です。それは、どうしてでしょうか。福永は、音楽が失われたということをただ書いているだけではないからです。失われたものをただ「今はもう無い」と書くだけだとしたら、それはどんなにか哀しいことでしょうか。

−−この古い民族にも音楽は あったのですか?
−−あったさ。音は残らないが どの民族にも音楽はある。木々のざわめき、星のまたたき、風のさやぎ、ゆらぐ炎。動き静まらぬ美の系譜だ。すべて美神のなせるわざ。
(萩尾望都『銀の三角』)

 福永は「一種の幻想」を用いて、また「空想によって」、夢のような音楽を想像し、それが確かにあったということを言っているのです。今は無いもの、誰も見たことがないもの、かつて自分にあったもの、そういうものに対して「ある」と言えることもまた文学の力の一つであるに違いありません。

by Yuichi Toyokura(H.14.1.14)

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