財団法人極真奨学会 極真空手道連盟 極真館 城南大井町支部


 この物語は、城南大井町支部の金子雅弘師範がどのよに、極真空手を始め、現在に至るまでの様々な人間模様をな語ったドキュメンタリーです。
金子雅弘師範代が語る我が極真城南人生!この特集では、入門編、白帯時代編、色帯時代編、黒帯時代編そして道場主に至るまでをシリーズとして特集します。
 特に、これから空手を始めたいけれど、自信がないと思われる方には必読です。最初はドキドキして道場へ入れないかもしれないが、それは貴方だけじゃないのです。今は偉い先輩達だって皆、最初は同じ気持ちだったのです。始める勇気と続ける努力!!

●第一章 入門編 ●第二章 白帯編 ●第三章 黄帯編T ●第三章 黄色帯編U ●第四章 茶帯編T
●第五章 茶帯編U)


【第1章 入門編】
トリャーッ!セヤーッ!その声で僕は、自分が怒鳴られたと思い、大粒の汗を拭いながら、必死に自転車で逃げていった。それが、初めて極真会館東京城南支部を見学に行った最初である・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今でも忘れはしない。僕が空手と言うものに興味を持ったのは、実はブルースリーの映画、燃えよドラゴンを見たことに始まる。横浜高校1年の時だった。当時、極真空手を始めた人の多くは、空手バカ一代を読んで入門した人が多いと思うが、僕はブルースリーが刺激になった。ましてや、極真空手と言う名前すら知らなかった。
映画を見終わった僕は、自分の体の中がやけに熱くなっている事に気づいた。スゲーッ!スゲーよ!おっ俺も、こんなに強くなりてー!いや、ブルースリーになりたい。そんな事を思った僕だった。実は当時の僕はまるで、マシュマロマンか横浜中華街の豚まんが歩いているようなくらいに太っていて、なんと体重が92Kgもあった。身長は165cm。そんな僕がそんな事を真剣に考えたのだから、今、考えれば、かなり現実とのギャップがあって笑ってしまう。
空手に興味を持った僕は、その後、何日か過ぎて、友人の誘いで横浜高校の空手部を見学することにした。現在でも強いと思うが、当時の横浜高校の空手部はかなり強く、全国優勝をするような実力があった。だが、実際に見学してはみたものの、何か違う。何か燃えるものが感じられなかった。「こんなんじゃねー!違うぞ!俺が求めているのは、こんな空手じゃない」そう思ったら、もう入部する気など更々なくなってしまった。
月日はどれくらい流れただろうか。ある日、横浜の相鉄ジョイナスの大画面のテレビで最強最後のカラテの宣伝を見ることになる。ブラッと買い物か何かで横浜へ行った僕の目に写ったのは、なんだか、体のでかい黒人が頭にバンダナかなんか巻いて熊と戦っているではないか。

それが、若き日のウイリーウイリアムスであった。僕は背筋に戦慄がよぎった。なんじゃ!強ーなこの黒い奴!怖えー! そこで、初めて極真空手を知った。何なんだ、この極真空手って?・・・・・・・・・・・・・・・・

たまたま、友人で極真空手のことをよく知っている友人がいて、話を聞けば、極真は大山倍達とかいう人が10円玉を指で曲げたり、ビール瓶の首だけを手刀で飛ばしてしまうとの事、僕はビックリすると言うよりも信じられなかった。

何にでも、取り敢えず興味を持つ僕は、信じがたい話しでありながらも、極真空手に対して深い関心が沸き上がってきた。そんなある日、行きつけの床屋へ行くと大山総裁と梶原一騎氏と並んだ写真があることに気がついたのである。実は、

その写真は以前から飾ってあったものだが、関心のなかった僕が気がつかなかっただけであった。
早速、店の主人へ訪ねてみると、以前から廣重師範の知り合いで、そこの息子さんも極真の城南川崎支部の川崎道場へ通っているので、もし、習いたいのなら、見学へ行けばいいじゃないかと言われ、見学へ行ってみようと思った。ブルースリーの映画を観てから1年後の事である。
見学へ行こうと思った矢先、僕の友人が極真年鑑と言う本を持っていたので、見せてもらうと、蒲田にも道場があることを知り、どうせなら、家の近くの蒲田道場を見学に行こうと思い、早速出かけてみることにした。高校2年の時である。

昼間、地図を片手に自転車で、蒲田道場に着くと、やけに静かだ!・・・・奥に事務所でもあるかと思い、深呼吸をしてから、大声で、すいませ〜ん!・・・・・・応答がない。

じゃあ、もう一度、すいませ〜ん!・・・・・何の応答もない。誰もいないようなので、夜、もう一度来てみることにして、家へ帰った。ハッキリ言って少しホッとした。

実は、ここに来るまでは僕の心臓はまるで、未知との遭遇状態でドキドキ、バクバクだったのだ。夜になり、再度、道場へ行ってみた。道場に近づくと、やけに静かだ、道場に着いて窓を覗いたとたん、いきなり道場の中から、トリャーッ!セヤーッ!その声で僕は、自分が怒鳴られたと思い、大粒の汗を拭いながら、振り返りもしないで必死に自転車をこいで逃げていた。

これが、前文でも書いた、城南川崎支部蒲田道場の初体験であった。
そんな体験をしてから、自分の不甲斐なさを反省して、何ヶ月かしてからだろうか、心新たに、再度、道場へ行ってみることにした。道場に近づくにつれ、相変わらず、心臓はドキドキ、バクバク、でも気持ちは決まっていた。

道場に着いた僕は、前回と同じに、まず深呼吸をして、大声で「すいませ〜ん!・・・」またも、応答無し。再度「すいませ〜ん!・・・」っと、突然背後から「何だね?」ワッ!びっくりして、振り返ると、眼鏡をかけてTシャツに空手着の白いズボンを履いた怖そうな人が立っている。今の廣重師範である。「あっあの〜入門したいんですけど」。

「そうか!じゃあ、これに記入して明日からでも稽古来なさい」これが、僕の入門までの長い道のりである。実に、入門まで約2年間悩んでの入門であった。実際は、道場へ入ることが出来ずに、道場の廻りを自転車でグルグル廻っただけで、帰った事が何度もあった。

【第2章 白帯編】
昭和57年4月2日、僕はついに憧れの極真会館の一員になった。
普段は忘れっぽい僕だが、こと空手の事になると、20数年前の事でも鮮明に記憶に残っている。

稽古初日、5時からの中高生クラスへ出席するため、僕は興奮と期待を胸に道場の扉を開けた。

当時は、廣重師範が自ら指導をされており、初日の稽古内容は、手刀鎖骨打ち・足刀蹴りなどの基本を教わったが、稽古開始から30分もたたないうちに、息切れがして苦しくなるは、めまいがして気持ちが悪くなるは、吐き気までして、とにかく水が飲みたかった。
1時間半の稽古は無事とは言えないまでも終える事ができたが、次の朝、猛烈に全身を襲う筋肉痛、これには、いささか参ってしまった。
とにかく体が痛くて起きあがれない。生まれてこの方、こんな経験をしたのは初めてだった。しかし、これで挫けて、稽古に行かなくなったら、絶対さぼり癖がついてダメだと思い、とにかく毎日、稽古へ行くことを決心した。

そして、5月になり、初めての組手をすることになった。組手自体は稽古で何度も見ていたが、僕が初めて廣重師範の組手を見たときから、組手をやってみたくてしょうがなかった。その時の廣重師範は眼鏡を取り、おもむろにマウスピースを付け、青帯の道場生を相手に組手をしたが、必死に攻撃をする道場生の攻撃は、空を切るばかりで師範の体にふれることすらできなかった。

それを目のあたりに見たときは廣重師範の凄さを思い知らされた。僕は、僕なりに組手スタイルを考えたが、やっぱり、行き着く所は、憧れのブルース・リーしかないと勝手に決めていた。当時の組手は、今と違い、稽古の時から顔面ありのルールで、最初に面下と言う、汗止めの手拭いを頭に撒き、スーパーセーフのヘッドガードをつけ、当時はブローブも無かったので、軍手をするのである。
そして、廣重師範の「ハイ!面下を着けて」と言う言葉が組手の合図で、みんな一様に緊張した面もちになる。当時は1人で早く3本取った方が勝ち。何人目かの組手が終わりいよいよ僕の番だ。

確か相手は同じ白帯だったと思う。僕はブルスリースタイルで軽いステップを踏みながら、相手のスキを見て右ストレートを顔面に叩き込んだ。これがまともに入り1本。

次は右の回し蹴りで2本を取り、最後は飛び足刀で3本勝ちできた。これが、僕の生まれて初めての組手であったが、以外と呆気なく終わってしまった。その後も休みなく稽古に通う日々が続いていたある日、廣重師範のお母上がお亡くなりになってしまった。
葬儀後に道場へ来られた廣重師範は、道場生達に「君達!親を大事しろよ」と言われた時、ふっと廣重師範の顔を見ると涙を流されているではないか。
その時の、廣重師範の深い悲しみと亡母を思いやる優しい気持ちを強く感じられた僕は、改めて廣重師範の弟子になって良かったと思うと同時にこの人について行こうと決めたのだった。

そして、入門して3ヶ月目、僕は強く記憶に残る組手稽古をやることになる。その日、いつものように廣重師範の「面下をつけて」と言う合図で防具を装着して、組手の稽古が始まった。僕の相手は、青帯の180cm位ある気の強うそうな相手で、いつもになく燃え上がった2人は、乱闘に近い組手になり、スーパーセーフの面が割れてしまう程だった。

組手が始まって何分たったのか、結局、決着がつかず。廣重師範は「決着がつかないから、どちらかが倒れるまでやれ」と言われ、組手は続行させられた。とにかく負けたくなかった僕は、空いていた相手の左脇めがけて、満身の力で右カギ突きを脇腹へ叩き込んだ。まともに脇腹に食らった相手は、肋骨が折れて、うずくまってしまい、やっと決着がついた。

とにかく、当時の稽古では、今と違いライトスパーリングなんてものはなく、普段の稽古でも本気で組手をするのが日常であり、組手以外にライトスパーリングなんて言う言葉すらなかった時代だった事を考えると、今の道場生は不幸なのか幸せなのか分からないような気がする。
話は変わるが、入門して3ヶ月。今と同じ入門3ヶ月で昇級審査を受ける事ができるのだが、あいにく僕は3ヶ月までに1週間足りなくて審査が受けられなかった。

しかし、審査の見学をした僕は、凄い組手を見ることになる。当時、同じ道場に所属していた緑健児先輩の初段の昇段の10人組手である。

僕のクラスとは違ったので、緑先輩を見るのは初めてで、身長が160cm位しかない小さな体で神技的な組手を見せつけられた僕は新たな感動を覚えた。

天性のバネを生かした蹴り技は相手に付け入る隙を与えない。胴回し回転蹴り・回し蹴り・受け返しなど、どれをとっても素晴らしいの一言である。

しかし、流石に10人目となると疲れが見えてきて、最後の相手をした湯沢先輩は疲れた緑先輩に対し容赦をしないでボカボカにしていたのには驚かされた。
でも、これが極真カラテである。いかなる時、どんな状態でも、いざ、戦いになれば勝つか負けるかしかない。中途半端は許されない、それが極真精神なのだ。

僕が入門して、何ヶ月が過ぎ、組手にも慣れてきたある日、ついに黒帯の先輩達と組手をすることになった。
最初の相手は、竹市先輩と言ってこの先輩は強かった。組手の合図と共に突っ込んで行った僕はほんの一瞬で左上段前蹴りを顎にもらい、ヘットギアーが吹っ飛んでしまった。

次の相手は身長157cmと小柄ながら第17回全日本選手権で素晴らしい戦いをした、堺先輩と言う方で、この先輩も、とにかく強かった。僕が必死になって、技を出すが当たらない。そして、僕が、思いっきりパンチを出した瞬間、目の前から堺先輩の姿が一瞬消えたと思った瞬間、僕は右上段回し蹴りを顔面に喰らいその場に倒れていた。

最後に当たったのが湯沢先輩(現・城南川崎支部相談役)で、やはり、一瞬にして、僕の鼻を脛で蹴られ一撃で倒されてしまった。とにかく、鼻の骨が折れたのではないかと思った程痛かった。やっと、組手を終え、鏡を見たが、鏡に写った僕の顔面は血だらけになっているではないか。

終始、顔面を蹴られまくった僕の顔は、鼻血は沢山出ているし、口の中はズタズタに切れて、酷いものだった。しかし、僕は何故か血だらけの自分の顔を見て、思わず「かっこいいー」と心の中でつぶやいた。そして、改めて極真は凄いと思った瞬間であった。

そして、8月になり、いよいよ、初めての合宿の時がやって来た。最初は合宿に参加することに自信がなかった僕だが、開き直りで参加することにした。伊豆3泊4日の合宿である。総本部以外の城南・城東・城西・埼玉支部との合同で約250名強の参加。この時は、あいにく台風が来ており、室内練習が主体となったが、とにかく辛かった。

すごく暑いし、基本稽古の時点でグロッキー状態になってしまった。何日目かに行われた8Kmマラソンでは、もともと走ることが大嫌いな僕には地獄だった。とにかく、走るだけは、走ったが、終わってみれば256名中250位で、最後の一人まで皆が拍手か何かして迎えてくれているのだろうと思い必死になってゴールまで着いたら、なんと、誰もいやしない。これにはガックリきて余計疲れてしまった。

次の日は、台風が接近して、大荒れに荒れていたので、稽古が中止になった。そして、台風も去った次の朝は、今でも鮮明に記憶に残っているが、本当に青空が新鮮でとにかく感動した。また、この日が合宿最後の日で、夜は宴会が開かれ、廬山師範が挨拶をした際、「一年後また同じこの仲間達の顔ぶれが変わらないで集まろうよ」と言う言葉で、僕は励まされ、「辛くても来年また来るぞ」と心に誓った。そして、2ヶ月後に控えた昇級審査の為に必死に稽古に励む事になる。

【第3章 黄帯編 T】
昭和57年10月、いよいよ僕にとって始めての昇級審査の日となった。当時の受審者は、確か50人程だったと記憶している。審査会場は蒲田道場で行われ、廣重師範によって、最初に筆記試験、次に、基本・移動・型・体力そして組手と細かく採点され審査は無事に終了することができた。

僕にとって始めての審査だっただけに、早く結果が知りたくて、とてもジッとしていられずに毎日、普段より早い時間に道場へ通った。そして5日後の金曜日、道場へ着いてみると、待ちに待った審査の結果表が壁に貼ってあるではないか。僕は、期待を胸に自分の名前を探していると「エッ」「うっ嘘だろ〜」僕は心の中でつぶやいた。

なんと、無級から5級に昇級しているではないか。とても、信じられなかった。そして、廣重師範から色帯を手渡されながら「頑張れよ!」と言われた時は、嬉しさの中にも極真の色帯としての責任感に武者震いがおきた。
でも、これで今まで以上に道場へ通うことが楽しくなった僕は、月・水・金の5時からの稽古と火・木・土の色帯だけの稽古に参加することにした。まさに日祭日以外は空手漬けの毎日である。
いよいよ、色帯を締めての稽古が始まろうとしている。
しかし、ここからが本当の意味での極真空手の恐ろしさを思い知らされる第一歩とはつゆ知らず、僕は意気揚々と始めての色帯の部へ参加した。

道場へ入った僕は心の中で「何か違うぞ・・・・・」「何か空気が違うぞ・・・・」周りを見渡すと、見たことのない色帯や、黒帯の先輩が沢山いて、稽古前は何と言うか異様な雰囲気と言うか空気が漂っている。そして、廣重師範の顔を見ると、なんと、普段の顔つきと全然違うではないか・・・・・・。「一体これから、どんな稽古が始まるのだろう?????どっ、どうしよう」僕は、なんだか逃げ帰りたくなってきてしまった。

てな事を考えているうちに「ハイッ!稽古を始めます」と言う声を合図に稽古が始まってしまったのである。基本稽古が始まると、やっぱり全然違う。気合いの大きさ、勢いといい、今まで行っていた5時からのクラスとは比べものにならない。休みもなく、突き・蹴りなど本数も多い基本稽古が40分。そして、直ぐに移動稽古・型・約束組手・・・・これには、参った。

それでも、黒帯の先輩が声をかけて、励ましてくれたお陰で、辛くても、稽古に来ようと思うことが出来た。いくら稽古が辛くても、稽古後の廣重師範の一言や先輩方の話を聞くことが楽しくて、嬉しくて毎日がとても新鮮だった。そして、稽古が多ければ怪我も、自ずと多くなるが、そんな時、「俺は極真空手を習っているんだ・・」と改めて実感が湧いてくる。

ここで読者の皆さんに言いたいことは、極真空手を続ける上で大事なことは、如何に怪我と上手に付き合えるかが、長く空手を続けるこつだと思います。空手をやる以上、多少の怪我は付き物。怪我をした時は、我慢せず兎に角、早く適切な処置をするべきです。特に格闘技をやっている人達は、ちょっとしたことを我慢する癖がありますが、それも良し悪しです。

試合中なら絶対に痛さを顔に出したりしてはいけませんが、普段はちょっとでも何処か痛めたところがあれば、出来るだけ適切な処置をして長い空手人生を送れるようにして下さい。
話がそれてしまいましたが、当時の稽古は火曜は突きだけの組手。木曜は蹴りだけ。土曜は自由組手というプログラムで行っていた。

特に自由組手の土曜日になると先輩方の緊張感も全然違う。今でも良く覚えているが、緑先輩と境先輩の2人で、緑先輩は、ひたすらサンドバッグを叩いているのに対して、境先輩は静かに立禅をしている姿がみょうに記憶に残っている。ある日の移動稽古の最後に緑帯以上の先輩方の連続5本蹴りが始まった時、廣重師範の檄がとんだ。

「本部の茶帯・黒帯がこれだけの人数いたらガラスが割れるくらいの気合いが出るぞ!」「何だ!お前達の気合いは〜!!」そして15分も続けているのを見ていた僕は恐ろしくてしょうがなかった。この時は、正直まだ黄帯で良かった思った。5本蹴りをやったことがある人なら分かるでしょうけど、15分も続ることは大変な事なのです。

しかも、その後、直ぐに組手である。15分の5本蹴りの後だというのに、黒帯の先輩方は顔色一つ変えずに、顔面だけの組手・顔面と蹴り・全日本ルールの組手と休みなく続く。当時から師範が口を酸っぱくしておっしゃっていたことが、「顔面を叩く間合い、踏み込み、目線を絶対に崩すな!」と言うことだった。皆、何セットも組手を行って、相当、疲れているにも関わらず、誰一人、辛い顔をせず、当たり前ので立っている姿には感動した。

そして先輩方の組手が終わり、いよいよ僕らの番だ。黄帯の僕は、青帯の人と対戦することになり、スーパーセーフを着けて顔面有りの組手をしたが、高校生のクラスを違い、やられっぱなしだった。とにかく途中で息が苦しくなってスーパーセーフを無意識に外してしまったりもして、最後までボコボコにやられてしまった。

今まで味わった事がないショックと恐ろしさで、嫌になりかけたけれど、同じ空手をやっているのに、ここまで差をつけられたた事で自分で自分が格好悪くって惨めだった。とにかく、負けないようにするには頑張るしかない。それだけ。理屈じゃ勝てない。もう、どうでもいいから何も考えずに頑張るしかなかった。
僕が色帯になって間もなく、第14回全日本空手道選手権大会が開催された。僕は、どうしても観戦したかったので、学校が終わって急いで東京体育館に向かった。何せ映画やテレビでしか見たことがなかった会場へ行けるだけで僕は興奮した。会場に入ると既に試合が始まっていたが、当時、一番前のS席(6000円)で観戦することができ、なけなしの小遣いを叩いたかいがあった。

席に着いた僕は、ぐるりと会場を見回すと、なんと、直ぐそばに故・大山総裁がいらっしゃるではないか。僕らにしてみれば、神様的存在の人が直ぐ近くにいらっしゃるだけで感動ものだった。目の前のマットで必死に戦っている選手達の姿は、テレビなどとは比較にならない迫力があった。そして、僕も、いつかはこの会場で戦えるようにな選手になる事を自分の心に誓った瞬間でもあった。

話はちょっと外れるが、2日目の試割りで、松井館長が、手刀か何かで失敗された時の板を、後で貰って、家に持って帰った僕は、早速、自分でも試してみようと、コンクリートの上にそのまま平らに置いて、思い切って正拳でぶっ叩いた。「バキッ!」「ウッグググ・・・」なんと、板も割れたけど、自分の手まで割れた。考えれば当たり前である。

隙間もつくらずにそのまま叩けば手が砕けるに決まってる。まったく、バカな事をしてしまった。でも、人間というものは自信が付くと尋常ではない事を考えて実行しようとするものである。かの大山総裁は昔、山籠もりから下山した際、本気で電信柱(昔は木製だった)を正拳で折れると思い、満身の力で電信柱を叩いてみたら、流石に折れはしなかったが、柱の上にいた雀が途中まで落下したらしい。

自信というものは時に恐ろしい力を発揮するものだ。僕もよく演武会で試し割りを披露するが、別に普段からそんな練習をすることはない。ぶっつけ本番である。その時に大事な事は、とにかく躊躇せずに思いっきり叩く事が成功の秘訣だ。
実は、これが簡単なようで、なかなか難しい。人間は目で情報を得て脳に伝達するが、目で見た時点で危険度を脳に伝えて気持ちを引かせてしまう。

だから、ほんのちょっとでも躊躇すると絶対に失敗するし怪我もする。そこで、大事な事が普段から何年もかけて地道に続けた部位鍛錬で、思い切って叩く自信ができるのである。余談が長くなってしまったが、この時の全日本で城南支部から出場したのは、湯沢先輩(現・相談役)で惜しくも3回戦で敗退してしまったが、当時の城南支部では一番強かった先輩だっただけに全日本に出場する事が如何に大変な事だと感じた僕だった。そして、この全日本大会後、僕は2人の大男に出会うことになる。

【第3章 黄帯編 U】
全日本大会も終わり、心新たに稽古を続けていたある日のこと、月・水・金の5時からの稽古に、一人の高校生らしき奴が入門してきた。体が大きく、みょうに態度もでかい。稽古が始まって、ふっと奴を見ると大きな体に似合わず、柔軟性抜群の体をしているではないか。後の城南支部黄金時代の立て役者の一人となる岩崎 達也である。

彼が入門して暫くしてから、組手をやることになり、僕は、てっきり高校生だと思って、思い切っ彼に向かっていった。勿論、当時は入門してまだ日の浅い彼に負けはしなかったが、その頃から、何か彼に光るものを感じていた。接近戦から、しなやかに繰り出される上段回し蹴りや、後ろ回し蹴りなど、柔軟性をフルに生かした空手は、他のどの道場生よりずば抜けたセンスが感じられた。

そんな彼を見て、僕は僕なりにいい稽古相手ができて嬉しかった。そして、何かお互いにうち解けあい、ある日、蒲田駅の方へ一緒に帰った時のこと、僕は「ところで君は高校何年生?」と聞いてみた。すると彼は「中1です」・・・・・・それを聞いた僕は愕然としてしまったと同時にショックを隠しきれなかった。
世の中に、こんな中学生がいたかと思うと、僕の行く末に一抹の不安がよぎった。もっと、がんばらなくっちゃ!人一倍努力しなけりゃ大変なことになるぞ。でも、その時、岩崎は将来、全日本で活躍するような選手になるかもしれないと思った。そんな、彼とのエピソードが幾つか有るので、ここでご紹介しよう。

ある日、稽古が終わり、帰る途中、セブンイレブンに立ち寄った時、彼は1リットルの牛乳を買い一気に飲み干してしまった。驚いた僕は「スゲーなー」と言うと、岩崎は顔色も変えずに「僕は1日に牛乳を3リットル飲んでるんですよ」とサッラッと言った。そんな状態だから、体重もドンドン増えるのである。そして、事件は起きた。

お互い、より仲良くなった、ある日のこと、自転車で2人乗りして道場から帰る途中、いきなり「バキ、バキ、バキッ、グワッシャッン」と凄い音と共に自転車が沈み込んで崩れた。何と、後輪のスポークが14本も折れてしまった。この時の2人の体重は合わせて170Kg位あったのだから自転車も、たまったものじゃない。そんな事件があってから、間もなく、僕は、もう一人の大男と出会うことになる。

ようやく、色帯の部のハードな稽古にも慣れ、相変わらず休むことなく道場へ通っていた。そして、いつものように道場で稽古をしていると、「ドッドドッドッド」バイクのエンジン音が聞こえてきて道場の前で止まった。次の瞬間、道場の扉が開くと、190cm近くはありそうな背の高い、目つきの悪い男が入ってきた。僕は心の中で「誰だこの男は?」そして、帯を見ると緑帯を締めている。そして、名前を見ると、”八巻”と書かれている。

稽古を見ると、体も柔らかく、前蹴上げをすると、とんでもなく高くまで上がる。その日は、組手で当たること事はなかったが、彼も僕を見るのが初めてで、稽古後に声をかけてきた。「いつ入ったの?・・・」「年は?・・・」「あっそう」単語だけで話された。「ちょっとミット持って・・・・」「ミドルやろう!ミドル・・・」そんな調子である。そして、いきなりミットを持たされると、遠い間合いから長い足で蹴り込んできた。

その一発で、僕は後ろにすっ飛んでしまった。それでも、次から次へと蹴りがミットめがけて飛んでくる。その度に、僕はすっ飛ぶ。暫くすると「やってみなよ・・・」とミットを持ってくれたが、パワーの差は歴然としていて、ショックだった。当時の八巻先輩は毎日道場へ来るわけでなく2ケ月位来ては、また2ケ月来なかったりというペースを続けていたと思う。

だから、八巻先輩が来ない時は、僕にとって平和で、来た時は地獄のようだった。来れば必ずミット持ちをさせられた。そして、月日は流れ冬になり、審査の時期になったが、白帯から黄色帯になってしまったので、型もきちんと出来ないし、実力も伴わないので、冬の審査は見送ることにした。

【第4章 茶帯編 T】
今では、関東錬成大会となっているが、当時は、春と秋の2回、首都圏交流試合と言う名前で大会が開催されていた。
この大会は、今のように夏のウエイト制大会が無かった為、毎年秋に開催される全日本空手道選手権大会に向けての支部内選抜とか新人戦のような大会であった。

この年の秋の交流試合は、ちょうど全日本選手権大会後すぐに開催された試合としては出場選手のレベルが高く白熱した試合が多かった。そして、城南支部からも多くの先輩方が選手として出場される事になったが、僕は全日本大会を観戦してからというもの、すっかり試合を見る楽しみを覚えてしまった。

今度は先輩方のセコンドについて応援できることが最高の喜びになっていた。いつも道場の組手では、全く歯が立たない先輩方が試合に出て負けてしまう場面を目の前で見た時などは、自分がこのような試合に出場する事は、とうてい無理だなっと実感せざるをえなかった。

この時の首都圏交流試合の時は殆ど城西支部の選手が上位を占める中、小さな体で果敢に戦った緑先輩だけがベスト8で進んでいた。緑先輩は既にその頃から、柔よく剛を制す組手で、相手の攻撃をさばきながら的確に自分の攻撃を相手に当てるといった組手で、自分より体の大きな選手を倒していた。まさに天才である。緑先輩の試合を見るのはこの時、始めてだった。

その何回戦目かは定かではないが、何度も場外に出され、見ている僕も「あーっ!負けたかな?」っと思い緑先輩の顔を見ると、その目はまだ気迫に満ち溢れていたのである。その瞬間、鋭い突きが相手の腹に決まり逆転勝利した試合は今でもハッキリと覚えている。そして、順当に勝ち上がりいよいよ決勝戦へ進んだ。相手は城西支部の今(コン)選手。体が大きく緑先輩と比べるとまるで大人と子供といった状態である。

試合が始まり、暫くすると今選手の正拳突きが緑先輩の顔面を殴打し、顔面が切れ顔中血だらけになってしまい、出血が酷くドクターストップとなってしまったのだった。結果は今までのダメージが緑先輩の方が大きかったと言う審判の判断で今選手の優勝となった。惜しくも準優勝となった緑先輩ではあるが、自分より体が大きい強豪選手達に立ち向っていった緑先輩の姿は、僕の目に、とても大きな存在に写った。

帰りに緑先輩が足を引きずりながら駅まで歩く姿は今でも忘れられない。今、空手をされていて、体が小さい人達も沢山いると思います。僕自身、体重は人一倍あるが身長は緑先輩とあまり変わらない。確かに体が小さければそれだけ不利なのは当たり前。生前、大山総裁もよくおっしゃっていたが「君〜っ!50Kgの奴と70Kgの奴と比べれば70Kgの奴が強いよ!」「70Kgの奴より100Kgの奴の方がもっと強い」「でもね!100Kgの奴だって牛には勝てないよ!」確かに、ルール無用で戦えば、その通りだと思う。

でも、ルールの中で戦う以上、小さな体の人でも勝チャンスは幾らでもあるので、絶対に諦めないでほしい。現に後に緑先輩は世界大会で優勝しているのだから。しかし、それには人10倍20倍の稽古をしなければならないし、如何に相手の技を貰わずに自分の技を相手に当てるかをひたすら研究しなければだめだ。旧、大山道場時代(極真会館の前身)にも藤平先輩という方がいて、その先輩も体が小さかった。

それを克服するために、本当に死にものぐるいで稽古をしていたらしい。やはり故・大山総裁がよくおっしゃていたが「僕が知っている限りで、一番稽古をしていたのは藤平だよ!」「唯一、二本の指で逆立ちをして道場を一周できたのも藤平だけだよ!」と言われていた。古い先輩に話を聞いたが、実際に藤平先輩はゲロを吐きながら稽古を続けていたらしい。後にこの藤平先輩はキックボクシングに転向して小さな巨人・リングネーム大沢昇と言われチャンピオンになられた人である。

だから、緑先輩だとか藤平先輩のように体が小さくとも努力次第では誰にでもチャンスは幾らでもあるので希望を持って稽古に励んでください。話がそれてしまったが、僕はこの大会を機に何か自分の中で、熱くなるものを感じていた。まだまだ未熟な僕だが、精一杯頑張って試合に出られるようになるんだ。しかし、僕の前に立ちはだかる壁の大きさはあまりにも大きなものであった。

恥ずかしながら、いつも道場での組手の時などは、緑先輩と当たるのが怖くて、わざと同じ列に並んで避けていた。稽古が終わると、みんなで集まって、緑先輩の上段回し蹴りをどうやって受けたらいいのかとか、よく話をしていた事を思えば、自分が試合に出ることなど、まだまだ遠い先の話である。

ここで、ちょっと僕らしい失敗談を一つ話しましょう。実はこの交流試合の時にナイスショットを撮るべく、自慢の一眼レフカメラを持ってゆき試合内容をカメラに収めていた。とにかく撮りまくった。撮りながらも「我ながらナイスな写真が撮れたぜ!」と早々に現像に廻した結果フイルムがちゃんと入っていなくて、何と一枚も写っていなかったのである。だから、ここにその時の試合の写真載せようと思っても存在しないのです。

交流試合も終わり、いつものように道場通いを始めたが、取り敢えず自分の目標である来年の審査を受ける為、毎日、休まず道場へ通った。そして、年末になり稽古納めの日がやって来た。道場で着くと廣重師範が「今日は稽古納めなので、みんなで1000本突きと1000本蹴りを行います」。僕は心の中で「え〜っ!そんなの聞いてないよ」と思いつつ、不安な気持ちとは裏腹にやってみたいという好奇心が先にたった。

交流試合以降、僕の中では、なんでも挑戦してみようという気持ちが色々な面に現れてきた。当時、廣重師範がよく口にしていた言葉だが「砂糖と塩を前に出されて、見ても判らないだろう!」「舐めてみた者だけが判るんだぞ!」と言われていた事が自然と身に付いたんだと思う。

そして、廣重師範の号令で1000本突きが始まった。100本ずつ黒帯の先輩方が号令をかける。500本まではきついと思っていたが、その後、無駄な力が抜けたのか体が温まってきた事もあって、突いていて気持ちが良くなってきた。そして、ようやく1000本突きが終わると休む間もなく蹴りに入ったが、これは突きと違ってきつい。辛いので、段々蹴りの高さが低くなってきて、最初は中段を蹴っているのだが、段々低くなって膝位の高さになってくる。

始めは気合いの声も大きかったが段々小さくなってくる。その時、ふっと堺先輩を見ると、なんと全力で、しかも中段より上を蹴っている。結局、最後の1000本まで高く蹴り上げて、終わった後も平然とした表情をしていた堺先輩は黒帯の先輩の中でも違うなっと思った。とにかく自分に厳しい方であった。そして、全てが終了し自分の中で充実感が一杯だった。こうして、何とか空手を始めて最初の年を越すことができた。新年を迎えた1983年、僕は今年の目標を立てた。

まずは試合にでること。昇級審査で緑帯になること。そんな気持ちからか、すがすがしい新年を迎えることができた。この年の僕は、高校卒業と大学入試を控え忙しい日々を送っていたが、空手の稽古だけは、けして休むことはなかった。何事にもはまりやすい性格だけに空手中心の毎日を送っていた。大学の試験も無事合格し、高校の卒業から大学の入学式までの自由な1カ月間は昇級審査のために、とにかく稽古をした。そして、4月の審査の日がやってきた。

審査日の僕の心境はと言えば、以前よりもかなり緊張していて、白帯の審査の時と違い、周りの人達の気合い・スピードなど、比較にならない。当時の記憶をたどってみると、白帯の時ほど記憶が定かではないのだが、審査の組手は、右上段回し蹴り1本勝ちをしたようだった記憶がある。審査は滞り無く終了し、白帯の時と同じく審査結果は数日後に道場の掲示板に張り出されることになっていた。僕は前回のように次の日から結果が楽しみで毎日、人より早く道場へいっては掲示板をチェックしていた。

そして、5日後、道場へ行って掲示板を見てみると結果が張り出されている。僕はわくわくしながら自分の名前を探して、緑帯の所には僕の名前がない。「あれ、俺の名前が無いぞ!」まさかと思い茶帯の所を見てみると、なっ、なんと茶帯で1級に昇級しているではないか。白帯から僅か2回の審査で1級になってしまったのだ!「なんで?」「どうしよう・・・」「とっ、とんでもない事になっちゃたぞ・・」「けっ稽古がきつくなるじゃないか・・」「心の準備もできてないだろ・・」僕はひたすら自分の心の中で自問自答を繰り返していた。

そして、廣重師範に呼ばれ、帯を渡される事になった「金子!・・よく頑張ったな」「これからも頑張れよ!」と心温まるお言葉を頂いた時は、流石に目頭に熱いものがこみ上げてきて、感動したと同時に、俺もついにここまできたんだなと実感した一瞬であった。

【第5章 茶帯編 U】
茶帯になると、道場で行われる行事などにも参加するようになった。そんな中、必然的に僕の試合の話も、持ち上がり現実的になってきた。4月に行われる首都圏交流試合と5月の千葉県大会の2つ出場の話があったが、湯沢先輩と堺先輩が首都圏の試合へ出場するというので、僕は迷わず千葉県大会を選んだ。しかし、千葉県大会と言うと、過去に、松井館長も出場した大会で、レベルの高い事など、その時点では、知る由もなかった。

その頃の僕は、高校を卒業して、大学(短大)も決まっていて、やることもないので、殆ど毎日道場へ通っていた。当時の試合用の稽古内容は、1時間半の一般色帯稽古の後、1時間から2時間程行っていた。パンチングミットにワン・ツー・ハイキック2発を、2分間3セット。技の研究・組手・ジャンピングスクワット程度のものだった。

その他に堺先輩は、稽古の前に立禅をし、稽古の後に、サンドバック、基礎体力トレーニングを1人でコツコツ行っていた。僕はと言えば、そんな技通用しないだろうと言うことを仲間と真剣に考えていた。今考えれば笑ってしまうような事だが、当時は、初めての試合と言うこともあり、必死だった。でも、そんな日々が楽しくてたまらなかった。そして4月になり、首都圏交流試合の日がやってきた。

試合の控え室とか、会場は何か独特の雰囲気が漂っていて、みんな殺気立っているようだった。どこを見てもゴツイ人達ばかりで、僕は「この試合に出ないでよかったー」と心の中で叫んでいた。暫くして、何か会場内で異様な存在感に気づき知らず知らずに目が引き寄せられた。そちらを見ると、他の選手とは何か違う雰囲気と言うか殺気というか、よく分からないが、とにかく何か違う選手がいる・・・・・・後に戦闘マシンと呼ばれる事になる黒沢浩樹選手である。

実際は身長も高くないが、何かもの凄くでかく感じた。体も他の選手よりも一回り大きく感じた。僕は改めて「あー、本当にこの試合に出なくてよかったな〜」と思った一瞬であった。
しかし、試合が始まってみると、黒沢浩樹選手は、現在、沖縄にいて、当時、僕の面倒を一番良く見てくれていた親泊先輩に負けてしまったのである。試合は次々進み、準決勝になってみると、勝ち残ったのは、湯澤・堺の両先輩と城西支部の大雅選手・三和選手の4名であった。

試合前の両先輩は廊下で座禅を組んで試合に備えていたのが印象的だった。「頑張ってください」と声をかけに行こうとしたが、雰囲気的にとても近寄れなかったことを覚えている。それだけ、2人の意気込みと言うか気迫を感じた。そして、いよいよ試合が開始されたが、お互い一歩も引かず、白熱した試合内容で、本戦決着が付かず、延長・再延長と、もの凄い熱戦が繰り広げられたのでだった。

しかし、結果は堺先輩が準優勝で湯沢先輩が4位に終わった。試合後、2人共、号泣していた。理由はハッキリ分からなかったが、どうも湯沢先輩が優勝して堺先輩がベスト4以内と言うことを2人で約束していたようであった。試合後、自分自信の責任からか、湯沢先輩と堺先輩は頭を丸めていた。そんな2人の姿を見て僕は、男らしさを実感した一幕であった。

そして、いよいよ次は僕の試合が間近に迫って来たある日、試合とは関係はない余談だが大学の体育の授業で49.195Km青梅マラソンコースで、完歩競争というのがあった。ただでさえ走るのが人一倍苦手なのに、「なんてこった〜!」と思いながら、いやいや走ったり、歩いたりの繰り返しで、なんとか完走することができた。空手をやってなかった頃の僕だったら、絶対に不可能な事だった。

なにせ空手を始めた頃は体重が90Kg以上あったのだから。その頃から、僕は、ちょっとした自分の体の変化を感じていた。顔つきが変わって、お腹の周りの肉がなくなってきているではないか。そう、連日の稽古のたまものである。
話は戻って、試合が間近な僕は、連日の試合向け稽古の疲労がピークに達し、動きが悪くなっているのにも関わらず、先輩達に技がまともに決まる。

これは後で分かった事だが、実は僕に試合の自信をつけさせる為に、先輩達は皆、僕の攻撃をまともに受けてくれていたのである。素晴らしい先輩達である。そんな先輩達の下にいれる僕は幸せ者だと、つくづく感じた。稽古の甲斐か、試合前に登録した体重は82Kgだったが、試合当日は、なんと78Kgまで体重が落ちていた。入門して1年1ケ月。みごと16Kgも痩せていた。
試合の前日、「自分の気持ちを奮い立たせよう」「燃えさせるんだ」「そして自分自身に感動するんだ」「よーし、やってやるぞー」っとなるようなビデオを見ることにした。今考えてみると単純なようだが、皆さんがよくご存知の、あの数見君も試合の前に、よく「仁義無き戦い」などのビデオを見て闘志に火を付けている事をご存知でしょうか。極真の選手は、結構、試合前に映画などを観て気持ちを奮い立たせる人が多いんです。これから試合の望もうと思っている方にもお薦めです。

僕は、1本目に「西部警察」で寺尾何とかが殉職する話、2本目は劇場用の「あしたのジョー2」を観た。そして、どちらともラストシーンでモーレツに感動して試合当日を向かえた。
人の試合を見に行くのとは、まったく違い、全てが新鮮な感じがした。僕は見る側と、やる側とは、こんなに違うんだっと実感した。入場行進は空手バカ一代のテーマソングで始まった。その時、僕は、この試合会場の雰囲気に酔っていた。

不思議と緊張などまったくなかった。当時、僕が試合前にするウォーミングアップは、軽く動いたり、ジャンピングスクワット50回やる程度のものだった。しかし、回りを見るとみんなミットを叩いたり蹴ったりしている。僕は、「なんで試合前に、あんな疲れることをするんだろう」と思ったくらいだった。試合開始後、3試合目、「ゼッケン5番。金子雅弘」ついに呼び出しがかかった。
試合会場に上った時は、頭の中が真っ白になっていた。自分がライトアップされているため、回りは真っ暗で何も見えない。

そして、相手の選手が呼び出された。篠崎選手。身長185cm。体重100Kg。場内がどよめいた。僕と篠崎選手の大きさがあまりに違うからだ。身長にして20cm、体重は22kg違う。「そんなの関係ねー」僕は心の中で呟いた。主審の加藤重夫師範が「正面に礼。主審に礼。」「お互いに礼」副審の一人が当時の松井館長が座られていた。試合開始。僕は腰をもの凄く落として低く構えた。構えた左手の向こうに見える相手選手が山のように大きく感じた。「よーし、この山をぶち壊してやる」っという気持ちで正面から思い切ってぶつかっていった。とにかく倒してやると言う気持ちしか頭なかった。

とにかく突きを打ち続けた。なかなか相手は倒れない。ましてや、利いた感じもない。それでも正面からぶつかって、なおも打ち続けた。普段の稽古中に考えていた技など、まったく出ないし、頭にも無かった。ただ無我夢中だった。本戦2分間は、あっという間に終わった。そして判定へ。結果は0−0の引き分け。そして延長戦へ。疲れていたけれど、再び相手に向かって、また打ち続けた。「クソーッ。なんで倒れてくれないんだ」とにかく無我夢中で、疲れたとか、苦しいとか分からなかった。本戦での勢いは無くなっていたが攻める気持ちだけは変わらなかった。

延長が終わり判定へ。なんと、またしても0−0の引き分け。今度は流石にバテていた。ついに再延長。お互いに手数も減って来た。そんな一瞬の隙をぬって相手の上段回し蹴りの連打攻撃が始まったが、どうにか受けながら相手の懐に入って行った時、相手の左上段回し蹴りの足が、僕の肩に引っかかり前のめりに倒れてしまった。しかも、その上に体重100KGの相手がドスーンっと落っこちてきたからたまったものじゃない。息が出来なくなり、目の前には綺麗な星がキラキラ光っている。

「なんじゃ、こりゃ?」「いけねえー。早く起きなきゃ」と思っても、なかなか思うように起きあがれない。どうにか、こうにか起きあがって、「ちょっと疲れたから、相手の動きでも見るか」っと思ったが、相手が向かって来るから、俺も負けじと向かっていく。
ちょっと態勢が崩れてきたので、態勢を立て直したいなーっと思った時、あることを思い出した。「猪木vsウイリー」戦の時、猪木がリング下に降りて、態勢を整えていた。「これだ!」相手の蹴りを受けるフリをして、自分もマットの下に降りて猪木の真似をした。

しかし、降りたのはいいが、身体がフラついてなかなかマットに戻れない。やっとの思いでマットに戻ったが、回りから見れば相手に突き飛ばされてフラフラになっているとしか見られない。戦っている本人からしてみれば、シッカリしているつもりだったが、後にビデオで見たらフラフラ・ヨタヨタで格好悪かった。再び向かい合って「よーし!今度こそ渾身の力を込めて叩いてやる」と思い、右の突きを全体重を乗せて相手にぶつけていった。

がっ、しかし、見事なまでに空振りしてそのまま勢い余って1回転して、ひっくり返ってしまった。ついに試合終了の合図。勿論、5−0で負けである。最後の挨拶もフラフラして、まともに挨拶も出来ない。負けたショックと疲れでマットを降りたとたん、ぶっ倒れて気を失ってしまった。暫くして、目を覚ますと目の前に医者がいて、その回りには先輩達や廣重師範が僕を見ていた。いったい、何があったのだろうか?。どうやら、酸欠で倒れて気を失ったらしい。

ただ頭が割れそうにガンガンするし、気持ちは悪くってゲロを吐きそうだった。
暫く休んで、気分も多少良くなった頃、僕に勝った相手の2回戦が始まった。もし、僕が勝っていたら、この人と当たったんだっと思いながら見ていたが、多分この状態だったら絶対に試合場に上れなかったなっと思った。相手の篠崎選手も2回戦で負けてしまった。きっと、相当疲れていたんだろう。僕は改めて、なんて、きびしい世界なんだろうと痛感した。
実は、この試合内容がきっかけで、今後暫く、自分を駄目にしてしまう事になろうとは思ってもいなかった。

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