福永武彦研究『夢のように』(C)1998 Yuichi Toyokura


〜灰市(仮) 一頁目〜

 木立の間に細い月がかかって梢や枝を影絵のように黒ずませていた。林の中の、あの家も、その月の真下にかろうじて影となって、それと知られるだけだった。僕はしかし家の様子があまりにも静かなのを不思議に思いながら、その方向を見定めていた。夜はもう遅く、町は寝静まっていた。その家の様子を探ろうにも、ここからは人影さえよくは見えない。ただ僕は、あの家のことを気にかけないではいられなかった。誰にでもそんな経験はあるだろう。旅の終りの最後の晩に寝付かれないというようなことが。僕の場合にはそれは、あの家だった。僕はこの町の者でもなく、この町から離れてしまえば、あの家のこともきっと忘れてしまうに違いないが、まだ今はこの町にいて、あの家もまだ目の前にある。夜が更けるにつれ、頭は一層冴えて、とても眠れそうになくなったので、一晩見届けるくらいのつもりで、その家を見ていた。夜気がしんと降りて暑いとは感じなかった。僕はじっと、その家を見ていた。その時、その家から火の手が上がった。

by Yuichi Toyokura(H.11.10.24)

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