福永武彦研究『夢のように』(C)1998 Yuichi Toyokura


〜灰市(仮) 二頁目〜

 それはもう十年の昔になる。そのとき僕は大学生で、卒業論文を書くために、ひと夏をその町の旧家で過ごした。もちろん初めからそんな遠くの、一度も行ったことのない町なんかに出かけていくつもりはなく、安くて静かで勉強のできそうな旅館さえ見つかれば何処でもよかったのだが、それがそう簡単には見つからなかった。そこにたまたま叔母がその町の話をして、知り合いの家があるからと紹介してくれた。ふだんからとても優しかった叔母の言うことなので、僕は喜んで出かけたものだった。しかしそんなことも僕は忘れていた。青春というものは何と早く過ぎ去り記憶を消し去ってしまうものか。毎日忙しいが口癖のようになれば、そういちいち昔のことを思い出す必要もなく暇もないのだ。僕がたまたまつけたテレビを見て、その町で放火で捕まった警官のことを知らなければ、僕は今更こんな古びた記憶を探りさえもしなかっただろう。僕はテレビを見ながら、僕がその町で知り合った人たちのことを思い、あの町も今回は隠しきれないだろうと思った。それとも年老いた警官は固く口を閉ざしつづけるだろうか。僕は、あの日に見た、炎に照らされている警官の横顔を思い浮かべていた。

by Yuichi Toyokura(H.11.10.27)

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