福永武彦研究『夢のように』(C)1998 Yuichi Toyokura


〜はじめに〜

大空を傾ける光はにほふ
夏野からやさしげに歌ひつつ
駆けて行く幼い日身を離る
塵さへも定かには分らなくて
この日射の晝さがり花さへも
眠ってゐる

            福永武彦

(彌生書房『現代の随想10』所収色紙)

......詩集の印象に較べて、作者の体温や息遣いが混入した分だけ言葉が表現する世界が濁って感じられる。肉筆で書かれることは、現代の詩にとってはきっと不幸な痛々しい出来事だ。
 冒頭二行は気負いがあって、文字はやや大きく、また気負った分だけやや騒がしく始まるが、途中からは、力も脱けて文字が淡々とした間合いを持つ。「書といふものは子供の方が大人よりもいい字を書くのではあるまいか」(「熊谷守一の書」)との言が暗示するように、後半二行は武者小路実篤的、白樺派的稚拙風だ。だが白樺派にありがちな露拙的ではない。穏やかで柔軟、やさしい翳がある。
 重力世界内存在を凝視する者の通弊、行は垂直に貫かれる。
(by 石川九楊 『現代作家100人の字』 新潮文庫)

"福永武彦(1918-1979)"(新潮文庫『風のかたみ』表紙裏)

福岡県に生まれる。一高在学中から詩を創作する。東大仏文科卒。戦後、詩集『ある青春』、短編集『塔』、評論『ボオドレエルの世界』、10年の歳月を費やして完成した大作『風土』などを発表し注目された。以後、学習院大学で教鞭をとる傍ら『草の花』『冥府』『廃市』『忘却の河』『海市』等、抒情性豊かな詩的世界の中に鋭い文学的主題を見据えた作品を発表した。1961年『ゴーギャンの世界』で毎日出版文化賞、'72年『死の島』で日本文学大賞を受賞。評論、随筆も世評高い。

"福永武彦(1918-1979)"(筑摩書房『ちくま日本文学全集』表紙裏)

福岡の生まれ。東大仏文科在学中に堀辰雄を知る。卒業後、参謀本部に勤め暗号解読に従事。中村真一郎、加藤周一らと「マチネ・ポエティク」を結成、詩を試みる。肋膜炎のため療養所生活を送り、その間、長篇「風土」を書く。学習院大学フランス語教師のかたわら、「草の花」「忘却の河」「死の島」など知的な作風の秀作を残した。加田伶太郎のペンネームによる探偵小説もある。
注)「マチネ・ポエティク」には、他に窪田啓作、白井健三郎が参加している。

"福永武彦 享年61歳 死因脳出血(角川書店『知識人99人の死に方』所収)

生年 1918(大正7)年3月19日
没年 1979(昭和54)年8月13日
 昭和20年肋膜を患ったのを皮切りに結核で昭和22〜28年、胃潰瘍で昭和33、35、38、41、45、47(ここで血清肝炎が加わる)、49、53(2回)年と入退院を繰り返した福永は、何度も迎えた生命の危機の、たまたまひとつが"当たり"だったにすぎないような突発的な死をむかえた。
 特に結核療養の6年間は福永に「死者の眼」という見方をもたらし、以後は愛と孤独と死をテーマにした叙情的、実験的な小説群『忘却の河』『死の島』(日本文学大賞受賞)などを生み出していく。"時代の死病"が結核だった療養世代最終グループの一人として、その死は"サナトリウム文学"の系譜の終焉を密やかに告げるものだったろう。
 昭和54年8月10日避暑先で胃から大出血。医師でもある加藤周一の判断で佐久総合病院に強制的に入院させられた。胃切除。手術は成功したが、脳出血を併発し、13日死亡。「人は孤独のうちに生まれて来る。恐らくは孤独のうちに死ぬだろう。」(愛の試み)と書いた福永だったが、「何かと言えば三人束にされて」と照れつつ嘆いた10代からの親友、中村真一郎と加藤周一が結局末期の日々をつきあった。
 福永は昭和52年にキリスト教の洗礼を受けていた。入信を知らされていなかった友人たちの間ではキリスト教式の葬儀が物議をかもした。

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