(C)1998 Yuichi Toyokura
〜年譜〜 |
クリさんによるインターネット初の福永武彦年譜。ちくま日本文学全集16「福永武彦」をベースに作成。追加情報は、ぜひクリさんに連絡を。 |
ここでは福永の随筆の言葉だけを使って年譜を作っている。だから、福永が亡くなったときのことは書いていない。引用は彌生書房 現代の随想10『福永武彦集』から。 |
1918(大正7) 0歳
私は太宰府の近くの二日市町で生れ、福岡の西公園の近くで幼年時代を過した。−故郷について− |
1924(大正13) 6歳
梅崎春生がまだ生きてゐた頃、君の小学校はどこだと聞くから、初めは当仁でそれから警固に移つた筈だと答へた−故郷について− |
1927(昭和2) 9歳
私は小学校の三年生の頃に、一夏、信州の山田温泉に伯父に連れられて長く滞在したことがある。−旅情− 私は既に母を喪っていたし、その前の年に父と共に上京して来たのだから、新しい環境はいつも私に旅情を感じさせていたかもしれない−旅情− 私は、小学校を全部で五回ほど変り、初めの二回は福岡市で、あとの三回は東京に来てから転々としたから、最後の青柳小学校の他はまるで覚えてゐない。−或る先生− |
1930(昭和5) 12歳
大村先生は六年一組の男子クラスを受け持つて、そのクラスの受験成績は大へん良く、一番の子は武蔵高校の中等科へ、二番から五番までは府立へ、六番から十番までは揃つて開成に入つた。私もその開成組だ−或る先生− |
中学生の頃
この白頭翁の詩は、私のような者でも中学生の頃に全文を暗記していたくらいだ−ねんねんさいさい− 私は東京山の手に住むサラリーマンの一人息子で、母親は夙に亡くなり、父親と女中との三人で暮してゐた−一枚のレコード− 私たちの住んでゐた隣の家は日本少年寮と言つて、昔は多くの寮生がゐて私もその一人で−一枚のレコード− |
高等学校
私は旧制の高等学校の生徒だった頃、三日がかりで伊豆を歩いたことがある。−旅情− 旧制の高等学校の生徒だつた時に、父親のお供をして、一度だけ関門海峡を連絡船で渡り、水城村に墓参に帰つた。−故郷について− 高等学校時代に、神田の本屋で十円の(芥川)全集を五十銭だけ値切り、その五十銭で円タクに本をのせて家へ帰って来た−危険な芸術− 当時私は旧制の第一高等学校の生徒だったが、理科乙類の友達に岡田というのがいて、これが鮎沢さんの坊ちゃんの日本語の先生になった。−夢のように− |
若い頃
私は若い頃詩を書いていたが、そこにはたびたび、私の想像のなかの海が描き出された。−海の想い− そして詩を書いていた頃、私は同時に「風土」という小説を構想していた−海の想い− 私がしげしげと奈良へ行つたのは戦争中で、−風景の中の寺− |
1941(昭和16) 23歳
堀(辰雄)さんに最初にお会いした夏のことを、思い出すままに書き記してみよう。......僕が初めて軽井沢へ行ったのは、昭和十六年の夏だった。その年の春、僕は大学を出て日伊協会に勤めていた。−別れの歌− 僕は「風土」を書き始めていたし、中村(真一郎)はバルザックの、野村(英夫)君はジャムの、翻訳に精を出していた。−別れの歌− |
1942(昭和17) 24歳
僕は次の年には長く軽井沢に滞在して、殆ど秋の深くなる頃までいた。しかし戦争は既に始まりいつ召集が来るかも分らなかったし、胸の底には重い苦しみを抱いていたから、この昭和十六年の印象ほど明るくはない。−別れの歌− |
1945(昭和20) 27歳
その前に堀さんにお会いしたのは、戦争の終った直後の、昭和二十年の秋だったから、それは実に七年ぶりだった。...僕は北海道の帯広から岡山まで旅行する途中、ほぼ一月ちかくを−別れの歌− |
1951(昭和26) 33歳
まだ療養所にいた頃、私は寝台の上に机を据えて「風土」という小説を書いていた。−ねんねんさいさい− |
1952(昭和27) 34歳
僕が最後に堀さんにお会いしたのは、昨年、昭和二十七年の九月だった。僕は漸く恢復したとはいえ、その頃まだサナトリウムの外気小舎にいて、五日間ほどの許可を貰うと追分の油屋に滞在した。−別れの歌− |
1953(昭和28) 35歳
私が清瀬の療養所を出たのはもう十五年も昔である。私はそこに足掛け八年いた。−ねんねんさいさい− 堀さんの訃報は僕らをおどろかせ、悲しませた。−別れの歌− |
1954(昭和29) 36歳
私は十年以上も前に(危険な芸術で)「死者の眼」ということを言った。−見る型と見ない型− 私は自分だけではない、そしてまた他人のというわけでもない、一つの抽象的な目玉を持つように自分を訓練して、それによって「冥府」とか「深淵」とかいうような小説を書いた。−見る型と見ない型− |
1957(昭和32) 39歳
今からもう二昔も前のこと、春の小半月を京都で過したことがある。−風景の中の寺− |
1962(昭和37) 44歳
私は一度も日本海を見たことがなく、六年ほど前に初めて山陰に旅行した。−旅情− |
1967(昭和42) 49歳
昨年の初秋、私は友人とともに再びそこ(信州の山田温泉)に行ってみた。−旅情− |
1968(昭和43) 50歳
私は先ごろ「海市」という小説を書いたが、そこでは二人の男女のそれぞれが持つ海のイメージが...−海の想い− 私は今年の春の初め、まだ雪の残っている頃に、中野重治、伊藤信吉両氏のお供をして能登に行き、−旅情− この夏、人に連れられてたまたま谷川岳の天神平というところまで登った。−旅情− ところが私は最近、必ずしも自分が「見る」型の小説家ではないような気がして来た。−見る型と見ない型− |
1970(昭和45) 52歳
私はこの七八年といふもの健康状態が芳しくなくて、そのため旅行も出来ず、せいぜい東京の自宅と夏の間の信濃追分の山荘とを往復するばかりだ−風景の中の寺− |
1972(昭和47) 54歳
昨年の五月に私は胃を悪くして半分ばかり死にかけた。−夢のように− |
1973(昭和48) 55歳
私は大学の教師でもあるから、この一年は大学の方も休みっ放しで同僚の先生がたにもとんだ迷惑を掛けたが、四月の新学期から講義を始めた−夢のように− |
不明
私が常照皇寺のしだれ桜を見に行つた話は既に随筆に書いたことがあるが、−風景の中の寺− |