福永武彦研究『夢のように』(C)1998 Yuichi Toyokura


〜福永とボードレールと映画〜

【何かしら一つの運動,例をあげればダンサーなり軽業師なりの一つづきの演技が,幾つかの数に分解されていると仮定して頂きたい。その運動の一つ一つが――その数を二十としておこう――軽業師またはダンサーの全身像であらわされ,それがすべて厚紙の円筒のまわりに描かれている,と仮定して頂きたい。この円筒を,もう一つの,等間隔に二十の小窓をあけた円筒と共に,一本の柄の先についている回転軸に取りつけて,諸君にはその柄を,火の前で火気よけの団扇を持つように握ってもらう。二十の小さな像は,ただ一つの像の分解された運動をあらわしながら,諸君の前面に置かれた鏡に反射する。諸君の眼を小窓の高さに合せ,迅速に二つの円筒を廻転させてみ給え。廻転が速くなれば,二十の穴は一つの循環する帯となり,それを通して諸君は,正確に類似していて,しかも一種の幻想的な精密さを以て同じ運動を試みている,二十の踊っている像が,鏡に映るのを眺められるだろう。(中略)こういう方法で創造し得る画面は,無限にある】(福永武彦訳)

 これはフランスの詩人ボードレールが1851年、まだ「映画」というものが存在しなかった頃に、「映画」について書いた文章だ。僕は、福永がボードレールに関する仕事をしていたことは知っていたし、福永が映画評論をよく書いたことも知っていた。ただ、ボードレールがこうした映像表現の可能性に興味と深い洞察があったことは知らなかった。これとよく似た文章を、僕はもう一つ知っている。

【電気タイプライターの要領で操作する製図機だった。(中略)製図者は大きな安楽椅子に坐ったまま、キイをたたくだけで、キイ・ボードの上に備えたイーゼルに、思いのままに図を描くことができるのだ。三つのキイを一度におせば、任意の場所に水平線が現われる。つぎのキイをおすと、垂直線が現われてこれと交叉する。二つのキイをおし、つづけてまた二つのキイをおすと、厳密な傾斜角を持った斜線がひけるという塩梅である。】(福島正実訳)

 これはアメリカのSF作家ハインラインの1957年の『夏への扉』(ハヤカワ文庫)という作品の一節で、まだ「CAD(コンピューター支援設計)」というものがなかった頃に「CAD」について書いている。これを読んで、なんだか回りくどいような、どこか不自然な感じがしないだろうか。そう、「マウス」が出てこないのだ。「マウス」もまたなかった頃に書かれた文章なのだ。

 これらの文章をよく読んで欲しい。どちらも、試作さえ出来ない「目に見えないもの」を書いている。どう作っていいのかさえわからなくても、文章にすることは可能なのだ。今や、「映画」も「CAD」も現実のものだが、もしかすると実現しなかったかも知れない。「目に見えないもの」を書いた文章は、他にもたくさんあるだろう。たとえば「平和」だとか。僕は、文章の目に見えない力、というものを思わないではいられない。

by Yuichi Toyokura(H.11.1.1)

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