福永武彦研究『夢のように』(C)1998 Yuichi Toyokura


〜福永武彦と黒田三郎と萩尾望都(a)〜

 私の好きな小説家と言えば、もちろん福永武彦だが、私の好きな漫画家に萩尾望都という人がいる。この二人には、二人とも福岡出身であるが、それくらいの共通点しかないものと思っていた。それが先日、槌谷さんから『忘却の河』の詩バージョンがあるとメールをいただいて、考えを改めた。それは黒田三郎という人の、こんな詩である。

      もはやそれ以上

   もはやそれ以上何を失おうと
   僕には失うものとてはなかったのだ
   河に舞い落ちた一枚の木の葉のように
   流れてゆくばかりであった

   かつて僕は死の海をゆく船上で
   ぼんやり空を眺めていたことがある
   熱帯の島で狂死した友人の枕辺に
   じっと座っていたことがある

   今は今で
   たとえ白いビルディングの窓から
   インフレの町を見下ろしているにしても
   そこにどんなちがった運命があることか

   運命は
   屋上から身を投げる少女のように
   僕の頭上に
   落ちてきたのである

   もんどりうって
   死にもしないで
   一体だれが僕を起こしてくれたのか
   少女よ

   そのとき
   あなたがささやいたのだ
   失うものを
   私があなたに差上げると

 私が、この詩を気に入ったのは、『忘却の河』に似通っているということだからではない。むしろ、『忘却の河』には表されていない言葉をこの詩に見つけたからであり、その言葉が私の裡で響いたからである。

   もはやそれ以上何を失おうと
   僕には失うものとてはなかったのだ

 この詩のタイトルにもなっている、このフレーズは素敵だ。「失う」という絶望感に、希望を与えるものだ。実は、これとよく似たフレーズが萩尾望都の『トーマの心臓』という漫画にもある。

   さようなら
   ぼくはゆくよ−−ゆくよ

   それできみには
   すべてが
   残されたことになる
   そしてなにも
   失うものはない

 このフレーズは深くずっと私の裡にありながらも、今まで福永武彦と結びつかなかった。それが悔しい。そして嬉しい。いま私は、自分がどうして『忘却の河』を好きであるかの意味を知ったのだ。そして今なら、『忘却の河』の「救い」について語れそうな気がする。(つづく)

by Yuichi Toyokura(H.11.2.7)

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