福永武彦研究『夢のように』(C)1998 Yuichi Toyokura


〜秋の嘆きと狂人日記とドクラ・マグラ〜

 狂気を扱った小説で私の印象に残るものが三つある。福永武彦の『秋の嘆き』と色川武大の『狂人日記』と夢野久作の『ドグラ・マグラ』だ。今回は、これらに特に関連があるというわけではない。狂気は、その解釈に際限なく多様性を持つ。では『秋の嘆き』の狂気とは、どういうものなのか。そういうことを書こうと思う。

 私は狂気をロマンチックなものだと思っている。『ドグラ・マグラ』では少なくとも表現上は狂気を科学的に書いている。『ドグラ・マグラ』は1935年刊行であり、フロイトの『精神分析入門』が1917年にまとめられているから、その影響を受けている可能性は十分にあるだろう。当時における作者の想像力は目を見張るものがあるが、ここでは狂気は題材として用いられているに過ぎないように私は思う。

 『狂人日記』には作者のあとがきに「モデル小説ではない」と書いてある。これは単行本の装幀に使った絵の作者がモデルではないということを言うためのものだが、私には「自分のことを書いた小説ではない」と言っているように聞こえる。というのも色川武大自身、ナルコプレシーや幻視幻覚に悩まされていたからである。あらゆる芸術作品は精神疾患の産物だという物言いがあるが、なるほどそうかも知れない。そうでないかも知れない。けれどその言葉は、切なくよく伝わる。

 さて『秋の嘆き』であるが、これには狂気の科学的な説明があるわけではない。かと言って、臨床的な狂気の描写があるわけでもない。言ってしまえば、ここには狂気など書かれていないのである。主人公早苗の父親が「狂人を収容する病院」に居たというのは、早苗との結婚をためらった麻野の嘘であるかも知れない。早苗の兄は死んでしまい、本当に狂うはずだったのか判らない。早苗に狂気の予兆は何もない。では、『秋の嘆き』の狂気は何だろうか。

 狂気の解釈で私が好きなのは、狂気は既存の概念に収まりきらない何ものかであり、狂気は世界の外に出て内に働きかけ世界を変えていく、というようなものである。『秋の嘆き』を最後まで貫いているのは、早苗の兄に対する想いである。その想いのために、早苗は世界を変えたかったのではないだろうか。まさかそのために、というのが、もう既に狂気ではないか。私が狂気をロマンチックなものだと思うのは、この小説を読んで以来のことである。

by Yuichi Toyokura(H.11.7.4)

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