福永武彦研究『夢のように』(C)1998 Yuichi Toyokura


〜前の作家〜

 誰にでも自分に近しい作家というのが居るだろう。一人の読者としてでも、一人の作家としてでもいい、自分の理解したいことを、また自分の伝えたいことのほとんどを実現してくれてる作家というのが居ないだろうか。あるいはそれは作家でなくてもいい。歌い手でも描き手でも、自分が感じていることや惹きつけられることのほとんどを表現してくれている人であればいい。ただ僕が思うのは、それは一人の作家であり、それを僕は「前の作家」と呼んでいる。
 小学生から中学生にかけて、僕にとっての「前の作家」は芥川龍之介だった。最初に読んだのは『トロッコ』だったと思う。そこに思い出として書かれている少年は、当時の僕には自分自身に他ならなかった。僕は自分を理解してくれる者として芥川と巡り会ったのだ。
 高校生になると福永が僕にとっての「前の作家」になる。芥川は言わば「前の前の作家」に成り下がる。「前の作家」と「前の前の作家」の違いは大きい。福永の芥川に対する評価を僕は鵜呑みにしてしまう。福永こそが僕の理解者だと思いこむのだ。枕元にいつも置いてあるのは『少年・大導寺信輔の半生』ではなく『夢みる少年の昼と夜』になってしまった。
 そうした得られた、その人にとっての「前の作家」は、しかし乗り越えられるべき存在でもある。その作家は、やがて世を去り、僕は残された。いや僕などは、福永が世を去るときを知らないので、残されている実感に乏しいかも知れないが。そして、その作家はもう語らない。そして、すべてが語られていたわけではないことに気づいてしまう。
 僕が「前の作家」と言うのは、その次があるはずだと信じて願うからだ。福永を「前の作家」とする者は、福永の血を引く池澤夏樹の小説を読んでがっかりしなければならない。池澤夏樹の小説が良いとか悪いとか言うのではない。この作家が福永の「次の作家」になり得ず、福永が「前の前の作家」になり損なったことを嘆かなければならない。僕は待ちこがれる、「次の作家」を。
 そして、どうしても「次の作家」が現れないのならば、自分こそが「次の作家」になるべきだ。「前の作家」を超える必要などない。ただ一つ、それで自分の思う全てのことを語ることが出来るのであれば。語らなければならない、自分の全てをもって。理解しなければならない、自分の全てを。その希望は永遠に受け継がれるのだから。
by Yuichi Toyokura(H.11.12.8)

戻る