福永武彦研究『夢のように』(C)1998 Yuichi Toyokura


〜タレント、本上まなみさんの愛読書の一冊:福永武彦「草の花」〜

さて、本上さん自身は「草の花」についてどのように語っているのでしょうか?
スコラNO.394&403によりますと、なよなよっとしている男性がでてきて、そこがいい。
ただし、実際の男性はなよなよってしている人が好きってわけでもない、とのこと。
(ちなみにスコラNO.403の好きな本、BEST5で、「草の花」は第2位にはいっていました。)

ここから先の記述は、すべて、このWEBSITE制作者の私が「草の花」をどう読んだかということであり、本上さんが「草の花」をどう感じ考えて読んだか、ということとは離れますので、お気に召さないかたは読み飛ばして下さい。

もしも「草の花」と福永武彦について正確に記述せよと命ぜられたのなら、私は一行一句も書き記す勇気を持ち得ないでしょう。しかし、このページを読まれている方は、概ね私と同じく本上さんが好きと言ったから、「草の花」に興味をもたれていることと思います。したがって、私は、そういう理由でこの小説に出会った人間の代表として、「草の花」に体当たりでぶつかってみようと思うのです。ですから、文学に造詣の深い方で、私の書くことに異論や反論がありましたのなら、素直に受け止めていきたいと考えておりますので、どうぞ忌憚のない意見をお寄せ下さい。

まずは、本上さんの言われる「なよなよした男性」とは誰のことでしょう?私からみて作者の福永武彦自身、小説の中の主人公「私」、その「私」に手記を託した実質上の主人公、「汐見」その汐見に愛された後輩の「藤木」、皆がなよなよしていると思われます。
では、本上さんの感じた「なよなよ」とは一体どういう意味なのでしょう?もう、これは推測する以外ないのですが、たぶん、現世のみでの世俗的な繁栄を望み、それを実際に実現している人とは正反対の境遇にある人ではないでしょうか。やや、ネガティブに捉えると、今この人生を楽しんでない人とも言えそうです。それは何故なのか?おそらく、人生を愉快に過ごすためには、あまりにも死の影が身近で大きすぎた人達だからなのでしょう。汐見に迫った死の影は、結核という病と戦争、そして愛に渇望する孤独ではないでしょうか。そして、すなわちそれが作者の福永自身におそいかかった死の影なのでしょう。

現代の戦争を知らない世代の私たちにとって、この小説が発表された昭和29年は、あまりにも時代が違いすぎて、戦争が日本人の生活や精神に与えた暗澹を想像することすら出来ません。
また、医学の進歩や、生活水準の向上といった違いも考慮せずに、この小説の暗さを論ずるのは正当ではないかもしれません。しかし、この小説が掲げる主題の暗さは、死の孤独であり、それは時代を超えた、人生の普遍的な課題と考えられます。そして、生きることの意味は、死ぬことと対峙して初めて理解される部分もあるかと思われます。

それでは、実際に「草の花」の世界の中に入っていきましょう。(以上6/5記)

まずは、この本の中にでてくるキリスト教に関する部分を整理してみました。
題名でもあり、はしがきにもでてくる聖書から引用された「草の花」とはどういう意味なのでしょうか?
ペテロ前書、第一章、24,25節をすべて書き出すと、「人はみな草のごとく、その光栄はみな草の花の如し。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る。」これが、あなたがたに述べ伝えられた御言葉である。

すなわち、草の花とは、この世での成功なんて実にはかないものであるということの象徴であります。キリスト教では、どちらかと言うと死んだときに天国に還れるようにというところに重きが置かれ、今現世の成功(特に経済や名声など)を軽んずる傾向にあります。
しかし、本当は違っていて、欲望に惑わされることなく、この世の人生においても最大限の成功をつかみなさい、と聖書の中に教えているところが有ります。それが、タラントの喩えなのです。
「汐見」はこの喩え話を、「一人でも信者の数を増やして行く」ことと考えてますが、私の解釈は違います。人はみな、何かしらの才能や資質を持って生まれ、それを何十年か生きている間に最大限に磨き輝かせることが人生の使命だと思うのです。人は幸せを求めて生きているのです。自分自身の幸せが他人を幸せにし、他人を幸せにしたいという気持ちや行いが、廻り巡って自分自身をまた幸せにする。
自分が生まれ持った器の大小は変えることが出来ません。それでも、自分に出来ることを、生きている間にしか出来ないことを、生きている間にやり尽くすべきです。生まれて死ぬのは自分の自由だから、おもしろおかしく生きればいいさ、他人の事なんてお構いなしさというだけの人は、授かった命の意味を忘れ、1タラントを地の中に埋めて、主人の帰りを待った者のごとく、持っているものすら取り上げられるでしょう。

ところで、このタラントの喩えとほとんど同じ話がルカにも出てきます。
(聖書の構成について:簡単に説明すると旧約聖書(キリスト以前)と新約聖書(キリスト以後)に分かれます。ちなみに「新約」とはキリストが約束された救世主であるという意味です。「草の花」に出てくるのは、新約聖書ですが、この中で最も重要な文書は、キリストの伝記ともいうべき4つの福音書で、作者はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4人です。
最初に出来たのが、マルコで次がマタイとルカ、最後がヨハネです。マタイよりルカのほうが歴史に忠実な記述と考えられています。)汐見は、また他にもマタイを取り上げ、「心の貧しきものは幸いである」の意味に孤独を重ねていますが、ルカでは同じ部分が端的に、「貧しき者は幸いである」と記述されています。この違いは、わりと有名ですから、福永武彦は当然知っていて、汐見にマタイを選ばせているように感ぜられます。


「草の花」を理解するために、最も重要なのは、愛という言葉の意味を知ることです。
ギリシア語で愛は、エロス、フィリア、アガペの3種類に分けられます。ちなみに、それぞれの意味は求める愛、分かち合う友愛、与える愛であります。エロ本とかエロオヤジのエロは、このエロスから来ているのですが、別に肉欲のみを表すわけではなく、精神的であっても求めるだけならエロスの愛です。

その究極のエロスこそが、実はプラトニックラブなのです。プラトニックラブと言うと、肉体関係のない愛というのが普通の使われ方ですが、もともとはあのプラトンの言うところの愛という意味です。
プラトンの思想で重要なのはイデアであり、それは、完全なる理想ということで、人間はイデアを求めて生きるべきで、実際の形あるものは(人間を含め)何かしら不完全であるという考え方です。
その考え方を押し進めた究極が、男同士の精神的な完全を求めた愛であり、汐見の藤木への愛は、まさしくプラトニックラブという究極のエロスなのです。

小説の善し悪しは、状況設定とストーリー展開、人物や情景の描写によって決まるのでしょう。
草の花はそういう意味で読者を引きつける小説であって、その構成も巧みです。中でも汐見の藤木に対する愛を語った第一の手帳は幻想的であり、藤木の妹、千枝子に対する愛を語った第二の手帳は、二人のセリフを通してキリスト教についての価値観(おそらく、ある程度は福永自身の価値観)が示されています。そして、結局のところ、この小説のクライマックスは藤木の「だって一人で死ぬのはあんまり寂しいもの。」というセリフであり、この本の主題は汐見の「藤木、君は僕を愛してはくれなかった。」というセリフに込められた、エロスの挫折なのではないでしょうか。

キリスト教の世界で神の愛と言えば、それは必然的にアガペを意味しており、「草の花」の中でキリスト教が、観念的に取り扱われていますが、その主題は全くキリスト教的ではないと言えるでしょう。
草の花は、福永武彦が30歳代に書いた小説であり、その後の20年あまりの間で、福永のキリスト教や人生に対する価値観がどのように変わっていったのか、知りたくもありますが、私の考察はここまでにしたいと思います。

なお、私はキリスト教信者でも、他のいかなる宗教の信者でもなく、かと言って唯物論者でもなく、例えるのなら、現代の普通のサラリーマンという、一本の「草」にすぎないのです。
(これで、「草の花」の特集は終わりにしたいと思います。6/9記)

追記:私の書いた上記の考察では、「孤独」と「愛」が別々に取り上げられ、その両者の関係がいまひとつ明らかではありませんでした。その点は、福永自身による「愛の試み」というエッセイを読まれると良いのではないかと思います。ただし、福永ファンには申し訳有りませんが、そのエッセイに示された福永の思想は、私には理解し共感することの出来かねるものでした。(6/13記)

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